2022/09/18 09:25

昨年の今日、9/18、お世話になった大先輩が鬼籍に入られました。

戦後を代表する漫才コンビ
「正司敏江・玲児」の敏江師匠です。

写真はハードコアチョコレートさんの「正司敏江Tシャツ」です。
気になる方はハードコアチョコレートさんのサイトを覗いてみてください(ステマじゃないですよ笑)。


もう一年か。早いものです。
私もしばらく落ち込みました。昨日の事のようです。

忘れもしない。敏江師匠に初めてお会いしたのは2010年、自分はまだ17歳の時でした。
パートナーであった玲児師匠は、自分が松竹芸能に入る前にお亡くなりになっていたので、敏江師匠といえば漫談の芸人さんというイメージでした。

周りの同級生が高校生として青春を謳歌していた時に芸事の世界に飛び込み、当時の大阪松竹でも最年少だった自分を、随分と目にかけてくださいました。

敏江師匠との思い出を語ると枚挙に暇が無いのですが、まず思い出すのはやはり茹で卵の件です。

敏江師匠は劇場に来る際は必ず大量の茹で卵を持ってきてくださっていました。我々新人や食に困っていた若手芸人によく配ってくださりました。

基本は一人に一つずつだったのですが、自分は当時から細身であったせいか毎回二ついただき、その度に「内緒やで」と仰るのですが、いつしか周知の事実になってしまい、「もうバレバレです」という返しをよくしていました。
また、
「オレ茹で卵二つ持ってっから」というマウントを取る楽屋芸も良くやらせてもらっていました。

週1回の昼寄席の楽屋へ挨拶にお邪魔する際も、毎度口癖のように
「髙本、お腹すいてへんか?」と気にかけてくださいました。

通天閣の真下にある「喫茶どれみ」で、オムライスやカレーやトーストをご馳走になった事も忘れません。

もう一つ思い出されるのが、当時の根城だった通天閣劇場の前で、自分が昼寄席の客引き(通称、ハッピ)を担当していた際に、酔っ払いの方とトラブルになった事がありました。
自分は当時18歳だった事もありかなり血の気が多く、変な絡まれ方をされればすぐに喧嘩腰になっていました。

そこに敏江師匠が、何故か舞台衣装のまま現れました。ハッピの仕事中に喧嘩をしてしまったものですから
「やばい、怒られる」
そう思ったのですが、怒られたのは酔っ払いの方でした。
「うちの若い衆に何さらしとんのじゃ、われ!」
常に柔かな師匠の怒声を初めて聞きました。

あまりの剣幕に酔っ払いは去って行きました。
舞台衣装のままだったので、出番終わりに駆けつけてくださったのだと思い
「お疲れの所お手を煩わせてしまって申し訳ありません」と頭を下げると、師匠は
「さて、じゃあお客さんを笑わして来るわ」と劇場の方に戻っていきました。

新喜劇宜しく、その場にいた全員がズッコケました。
実は出番直前に控え室から居なくなるというのは、松竹的には敏江師匠あるあるで、屡々客席で常連のお客さんと談笑している事があったのですが、
まさか劇場の外で喧嘩の仲裁にまで来てくださるとは思ってもいませんでした。

ただ、そのまま出番に向かう敏江師匠の小さな背中は、とてつもなくカッコ良かった事を覚えています。

自分に傾倒していた敏江師匠にある日、海原かなた師匠(ちなみに私は、かなた師匠の弟子でした)が
「髙本はまだ十代ですよ。姐さん、あんまりベタベタしとったら犯罪になりまっせ。」と仰った事がありました。

それぐらい、当時は可愛がって頂いていたのですが
2013年に自分が松竹を退社してからは中々お会いする機会も無くなってしまいました。
もっと会いにいけばよかった。お亡くなりになってから激しく後悔しています。

改めて、敏江師匠、たくさんの愛と思い出を有難う御座いました。
そちらで玲児師匠とまた漫才を楽しんでくださいね。自分がそちらに伺った際は、また茹で卵をご馳走してください。
80年間、お疲れ様で御座いました。

戦後を強く生きた偉大なるエンターテイナー、正司敏江師匠に心よりご冥福をお祈りします。