2022/10/30 16:16

Tシャツのまとめ売りを始めました。



普段、一点一点販売している普通の古着とは違って、
丁寧な出品、梱包は保証できませんが、
その分安く仕入れができます。

アメリカ規格の輸入古着ばかりですが、
何枚か日本規格も混ざっています。
中にはヴィンテージやブランド物も
入れています。

端数切り捨てで
一枚あたり、約384円で買えます。

これから副業で
フリマアプリを活用しようと考えている方、
セール商材が欲しい同業の方、
ぜひ活用してみてください。

もちろん、一般の古着好きの
お客様でも購入可能です。
よろしくお願いします。



さて、タイトルのお話。
「全盲の女の子との素敵な4年間」
というお話なのですが。

まず前情報として、
私は中学2年生の時、
「闇落ち」しまして
(「不良になった」という訳ではないので
「闇落ち」という言い方をしています。)

その後20歳で地元を離れているので、
闇落ち以前の子供時代の記憶が
すっぽり抜け落ちていたりするんです。

それで、昨年29歳の時
地元で再び生活するようになって、
私の事を子供の頃から知っている人たちと
接する機会が増えたんですよね。

不思議なもので、
色々と思い出すことがたくさんあるんです。

ご飯を食べるのがイヤ過ぎて
体中を緑の絵具で塗って、
裸のまま外を歩いて
「光合成してるから飯いらんねん」
と言っていたこと、

「ごくせんごっこ」と称して、
ヤンクミのものまねをしながら
気に入らない同級生たちを
ボコボコにしたこと、

坂の上から
大型トラックのタイヤを転がして、
同級生に受け止めさせるという
謎の危険な遊びを開発して
PTAで問題になったことなど、

どれもこれも学校やPTAで
大問題になった事件だったんですが、
周りの人に言われるまで
本当にすっぽり忘れていたんです。

そして
「ああ、俺ってクレイジーな子供だったんだな」
と、悲しくなったりするんです笑。

そんな日々の中で先日、
実家を片付けていた際に
こんなキャップが出てきたんです。


私が小学生高学年ぐらいの時に、
毎日被っていたキャップなのですが。
これを見て、ハッと思い出した事があったんです。

もう「なかったもの」として
脳の奥底に封じ込めていた記憶が、
一気に蘇ってきました。

きれいにまとまるお話かどうかはわかりませんが、
なるべくまとめてみようと思います。

私が通っていた小学校は、
二つの地域から子供が通っていました。
仮に「こちら側」と「あちら側」とします。

学校でいるうちは、地域も関係なく
誰とでも仲良く遊んでいたのですが、
放課後や休日は、あちら側の人間とは
一切関わりませんでした。

というのも、すごく険悪だったんです。
かなり長い喧嘩の歴史があるそうなのですが、
近いところで言うと、80年代後半に
結構派手な抗争があったそうなんです。

上の世代の人は、未だに険悪なムードが残っているのですが、
90年代に生まれた我々世代には、
あまり実感がなくて、
特にあちら側を嫌ってはいませんでした。

ではなぜ放課後や休日は、あちら側の人間とは
一切関わらなかったのか。
こちら側の我々があちら側に行くと、
何をされるかわからないからです。

たとえ小学生でも、よそ者と見るや否や
大人たちに拐われてリンチされる
なんて事が日常でした。

だから、こちら側はこちら側、
あちら側はあちら側で、
なんとなくまとまるようになっていました。

小学校に入学したばかりの時、
噂だけは聞いていました。
「あちら側に、目が見えない女の子がいる」と。

「まあ、クラスも違うし
関わることはないんだろうな」
と思っていました。

はじめてその子と同じクラスになったのは
4年生の時でした。

名前の順の関係で席が近かったので、
いつの間にかよく喋るようになっていました。

「目が見えない」という事以外は、
本当に普通の女の子でした。
それどころか、すごく明るい子で
話していると、とても楽しかったです。

ただ、どれだけ仲良くなっても
地域の違いというのがありました。
学校にいるうちは一緒に居られても、
学校を一歩出てしまえば他人でした。

とはいえ私は、確実にその子に魅かれていました。
その子の為になるならと、
ガキなりに色々と頑張ってましたね。

頭が良い方ではなかった私が
実は点字を読み書きできるのは、
この時に勉強したからです。

そして、前述の通り
変人系問題児だった私が、
唯一先生に褒められた事が、
その子を、体育の授業に参加させたことでした。

普段の授業なら、
あちら側の大人たちが作ってくれたという、
教科書を点字で打ち直した本を使えば
理解できていたのですが、
体育はそうはいきません。

見学しようにも、「見えない」ので、
体育中は保健室で保健の先生と話す日々を
3年間過ごしたようなのですが
「みんな楽しそうに騒いでるから、
私も参加したい」と言っていたのを聞いて、

私は先生に直訴しにいきました。
「俺が面倒見るから、
あの子にも体育をやらせてあげたい」と。

ただ、長い距離を走ったり、球技をしたりするのは
さすがに危険なので、
みんなが楽しそうにバスケや野球に興じている隅で、
2人でキャッチボールをしていました。

「ゴロならバウンドの音で場所がわかるから
キャッチボールできる」
とのことで、初めはゆっくり転がしていたのですが、
「もっと速くても良いで」
というので、段々とスピードを上げて
ボールを転がすようになりました。

見えていないはずなのに、
音を聞くだけでちゃんと反応して
難なくキャッチしていましたね。

一度私も、目を瞑って転がしてもらったのですが、
全くダメでした。
立体的に感覚を掴めなくなるんです。
いかに自分は目に頼って生きてきたか、
実感しましたね笑。

「人間の五感はどれかが欠けると、どれかが発達する」
というような事を、大人になってから聞いた事があるのですが、
その子は聴覚が発達していたんだと思います。

私はゴロで投げますが、
その子には思い切り投げ返してもらっていました。
当時の私は、少年野球をやっており、
しかもファーストだったので、少々荒れた球でも
簡単にキャッチできたので、
好きなように投げてもらっていました。

そんな風に全力で体を動かす事自体
人生で初めての経験だったようで、
毎回すごく喜んでくれていました。

そんなこんなで、学年も上がり
クラスも離れちゃうのかなと思っていたのですが、
毎年その子とは同じクラスになりました。
学校側の、根深い陰謀を感じます笑。
でも、ガキな私は純粋にうれしかったですね。

5年だか6年だか、定かではないのですが、
ある日その子がキャップを被ってきました。

先ほど写真を載せた私のキャップを
机に置いたままにしているのを
勝手に触って感触を覚えていたようで、
お母さんと買いに行ったのだそうです。

「お揃いやろ!ええやろ!」
と喜んでいたのですが、
その子が被っていたのキャップは
オレンジ色のヤンキースのキャップでした。

「黒のタイガースなんやけどなあ」と思いつつ、
「お揃いやろ!」と言われて
私は咄嗟に

「ホンマやな!お揃いや!」

と返してしまいました。


これ、人生で初めてついた嘘です。


これが良い事だったのか悪い事だったのか、
私には未だにわかりません。
でも、本当の事を言う勇気がありませんでした。

それ以来その子は
毎日オレンジのキャップを被っていました。
それがまたすごく似合っていて、すぐに見慣れましたね。

明るい子だったので、黒よりオレンジの方が
結果的に良かったんじゃないかと思います。


やがて中学生になり、中学校に通うようになるのですが、
ほぼエスカレーター式だったので
メンツは代わり映えしませんでした。

田舎の中学校特有の空気だと思うのですが、
とりあえずみんな不良になっちゃうんですよ笑。

それで1個上の先輩たちが
新入生の中で不良になりそうな奴を
呼び出して、いわゆる「ヤキ」を入れる、
という風習があったんです。

私もその「不良になりそうな奴」に
入れらていたようで、呼び出されて
蹴られたり殴られたり、
陸上用のスパイクで背中を刺されたりしました。

その「ヤキ」に呼び出された同級生は
もれなく全員グレたのですが、
私はそちらの道には行きませんでした。

そんな奴らと遊ぶより、
目の見えないあの子と居る方が
よっぽど楽しかったし、
野球もやっていたので
それなりに忙しかったんです。

ただ、やはりまだ「あちら側」に足を踏み入れることはできず
相変わらず「学校で会うだけの関係」に留まっていました。

当時はもう、同級生たちの口から
「彼氏」「彼女」などという言葉が飛び交っていましたが、
私は、その子に積極的になれなかったんです。
それは、あちらも同じだったと思います。
あえてそういう、色恋の話題は避けていたように思います。

もどかしい日々を過ごしていたある日、
事件が起きます。

私は、事故に遭ってしまいました。
詳細は伏せますが
「あの時、私が不良になっていれば」
起こりえなかった事です。

右足を広範囲に渡って複雑骨折。
全治1年、治っても一生車椅子の可能性もある。
お医者さんにはそう言われました。

中学2年生の1年間、私は車椅子で生活していました。
結果、中3になってからリハビリを頑張り、
歩けるようにはなったのですが、

神経が何本か潰れているようで
30歳になった今でも、
右足にはほとんど感覚がありません。

そんなレベルの大怪我だったのですが、
中学生の私にとって
ダメージが大きかったのは
体よりも「心」の方でした。

「事故に合わせたあいつらを
全員○してやる」

それも通り越して

「目に映る全員○してやる」
まで、心が荒んでいました。

学校にも行かなくなり、
夜、仲間の原付の後ろに乗って街に出て、
目に映った「不良っぽい奴」を
片っ端からボコボコにしていました。

「不良」という人種を心から憎んで、
「世直し」の感覚でそんな事をしていました。
私自身、親の方針で格闘技をやっていたので、
負けることはあまりなかったのですが、
今思えば相当危険な遊びをしていました。

やがて、ヤクザの手伝いをするようになり、
手にした小銭で、港の密輸船から草を買い、
草を吸っては、また暴れる。
という、負の連鎖の中にいました。

これが前述した「闇落ち」です。

そうなってしまうと、
もうあの子のことなんて忘れていました。

中学を出てからあの子がどうなったのか、
今何をしているのか、
全く知りません。

大人になった今、「あちら側」にも普通に出入りするようになり、
何人か仲良くしている友人もいるのですが、
その子の話はしてきませんでしたね。

思い出してしまったからには、
ちゃんと腹を括れてから
聞いてみようと思います。

あの子も、私がおかしくなったことなんて
知らないはずですし、
突然目の前からいなくなった私のことを
覚えていないかもしれません。

それならそれで、全然良いんです。
幸せにしているなら、それで。

というお話でした。
結局、闇落ちした私を救ってくれた
コメディ、演劇という文化に
その後は傾倒していくのですが、

そこに至るまでに
色んな大切なものを
捨ててきたんだなと、
この歳になって心から思います。

たまには一度立ち止まって、
振り返って
過去に捨てた大切なものを
直視できるようになりたいなと
思いました。